その時々思い浮かんだことを<つぶやき>と題し、不定期に綴っては藤枝市の画廊・画材店アートカゲヤマに置かせていただいてきた。部数は50部ほどである。その中から藤枝静男にふれたものを以下転記する。

<つぶやき>No.3  2007年3月23日
藤枝静男という小説家をご存知だろうか。明治41年(1908)に藤枝に生まれ、平成5年(1993)横須賀市の入院先で死去した。作家としての出発はおそく、処女作「路」を発表したのは39歳のときである。長女夫妻に診療を譲る62歳まで眼科医を続け、寡作ながら「空気頭」をはじめ鞏固で衝撃的な作品を書き続けた。代表作の一つ「田紳有楽」は68歳のときの作である。昭和57年(1982)、核兵器廃絶を求め文学者たちが「核戦争の危機を訴える声明」を発表する。74歳の藤枝静男はこの声明に名を連ね、アンケートにつぎのように答える。「私は一対一の殺し合いでも人殺しには絶対反対ですから、核装備など論外で留保の余地はありません」。
 声明から20余年、相変わらず核兵器は世界中にあふれている。「通常兵器」もあふれている。そしていま、日本はどうもキナ臭い。第二次大戦後60年間、日本を戦争から遠ざけてくれた憲法九条を捨てたがっている人たちがいる。藤枝静男なら、今の日本の情況をどう見るだろうか。

<つぶやき>No.25  2016年3月10日
 藤枝生まれで1993年に亡くなった小説家藤枝静男に、短編「老友」がある。医者の大村は、ヨーロッパ旅行でパリに何泊かする。画家をしている古い友人の半井を思い出し、ホテルに呼び出す。半井の案内で画廊を見て回るが、大村にはほとんどがくだらない作品に思えた。「必然性がないよ」という大村に、半井は言い返す。「そんなこと云ったって、必然的か他動的か、偶然か、画描きの方は描いてみなければわかりませんよ。思いつきが必然のはじまりになることだってある。そっちの方が多いくらいですよ。自分でどうなるか、分かるくらいなら苦しみやしない」。
 昔、県美連展の審査に来た坂崎乙郎が「描く必然性が感じられる絵は2、3点しかない」と酷評したことを思い出す。私は落穂拾いに似て、つまらぬメモ描きも破り捨てるのを我慢してスクラップしてきた。才能に乏しい者は、瑣末なものも貯め込んでいくしかない。そうした蓄積の中から、作品をつくってきた私である。必然か必然でないか、知ったことではない。

<つぶやき>」No.42  2018年6月12日
 「藤枝文学舎を育てる会」の機関紙「藤枝文学舎ニュース」に連載した作家藤枝静男に関する随筆を、最近になって冊子にまとめた。ニュースは年4回の発行である。連載は1997年1月号が始まりで、中断をはさんで2011年10月号まで、数えたら54回にもなっていた。編集者が拙稿掲載をよくぞ許容してくれたと感謝である。
 Uさんから「青木さん書かないか」と電話がかかってきたのがきっかけである。思えば、その電話がなかったら目の前の冊子はない。
 来し方を振り返ると、このようなことが幾つもある。中学時代Y先生と出会わなかったら、版画をはじめなかったかも知れない。Eさんと職場が一緒にならなかったら、絵本『第五福竜丸』は生まれなかったろう。Oさんに勧められなかったら、国展に出品したかどうか。40歳を間近にした遅い出品で、今に続いている。
 出会いは、人だけではない。高校2年の3月古本屋で見つけたピエロ・デラ・フランチェスカの画集、意気盛んな20代繰り返し読んだむのたけじの『詞集たいまつ』、悩み多き30代手にした霜山徳爾の『人間の限界』、今も書棚の目につくところに置かれている。
 こうした出会い一般は、そのほとんどが偶然だろう。私は運命論者ではない。しかしその積み重ねから出来上がったであろう今の私から眺めると、それらは起こるべくして起こったように思われる。

<つぶやき>No.57  2020年4日
 詩人臼井太衛(たえい)さんが、1月27日に亡くなりました。享年83歳。滝ノ谷川上流に腰を据えて、骨太な生涯を全うしました。
 自らの死を自覚した太衛さんは「やりたいことをやりめぐまれた人生に後悔はありません。天命を受け入れます。人生楽しかった。皆さまありがとう」と、妻に言付けました。仏教学者中村元は書いています。「人間は本当にはかなく浅ましいもので、力のないものですね。けれども不思議なことに、温かい心をもつことができます。(中略)人から恵まれたことを喜び、感謝して、人のためを思いながら死んでゆく。そういう気持ちで死ぬこともできます。これは誰にでも可能です。ですから私は温かな心を持って死んでいきたいと思っています」。
 太衛さんの死は、中村がそうありたいと願う死であったと言えるでしょう。そしてそれは「誰にでも可能」だと、私には思えません。
 太衛さんの業績は多方面に渡っていて、簡単には語れません。私の個人的な思い出を語らせていただきます。1996年9月30日の夜のことです。太衛さんから「藤枝文学舎ニュース」に作家藤枝静男についての随筆を連載しないかと電話がありました。その気にさせるのが太衛さんはうまいのです。引き受けてしまいました。このことが、藤枝静男についてあれこれ調べたり書くことの始まりでした。その作業から私は多くを学び知友も得ました。望外なこともありました。私が集めた資料が「青木鐵夫収集藤枝静男コレクション」として日本近代文学館に入ったことはその一つです。今の私の何割かは、太衛さんにつくっていただいたと思っています。私を認めいつも励ましてくれた太衛さん、ありがとう。

<つぶやき>No.77  2022年11月23日
 藤枝出身の作家藤枝静男宛の城山三郎の書簡(1981年11月7日付)を古書店より入手。「青木鐵夫収集藤枝静男コレクション」の補充である。
 書簡に目を通すと「私などいつまで経っても作家になれず、文学の入口で、素人同然いつまでもウロウロしている形です」の一文に出くわし驚いた。
 城山三郎と言えば「総会屋錦城」「落日燃ゆ」「男子の本懐」の作者で知られる。この書簡の前年に、新潮社から『城山三郎全集』が刊行されてもいる。直木賞、吉川英治文学賞、毎日出版文化賞など受賞歴にも不足はない。
 この一文には前があって、藤枝静男の中国旅行記を読んでの感想が書かれている。
「すっかり旅なれていらっしゃるというか、随所に主となって、どこへ行っても先生は先生と言う感じで、やはり作家なんだなアと感心しました」。
 謙遜も過ぎると嫌味になる。しかし城山の人柄については、いささか私なりの理解がある。藤枝静男へのこうした敬意と自省の言葉として、一文を素直に受け止めたい。
 ことは「作家」とは何かに止まらない。なにより人として、どうありたいかということだろう。前号でも取り上げた『鶴見俊輔詩集』に、旧約聖書「エゼキエル書」の一節を鶴見なりに訳した言葉がある。
   人の子よ 自らの足によって立て
   そのとき 私はなんじにはなしかけるであろう


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